手記と目的 2017/02/06 1:03-3:47
やっとこのブログの使い方が定まった。
ブログを一新すると言った時と、読む人には別に変わらない。それどころか私自身気づけなかっただけの話なのでどうも説明するのに妙な躊躇いがあるのだが、書いておいたほうが良いだろう。
手記を書いてみるつもりだ。
どんなものになるかわからないし媒体も決まっていないし、何だそりゃ、と思われそうだが、別に珍しいことでもない。
とてもよくあることなのだとこの本を読んで理解した。
2017年2月9日まで大手電子書籍で無料ダウンロードできるそうなのでとりあえずもらっておいたらいいかと思うが、この人がこれまでの人生を書けるだけ詳細に書いたものだ。
私がしようとしていた事はこれだった。このブログはただの愚痴話から始まったが、もうひとつのメインブログはそのために始めた。だがその役割は果たせていない。
一番の理由は記憶を一時的に失っていたことではないかと思うが、もうひとつある。
私は自分の本当に欲していることがブレていた。本当は「生きたいように生きるため」じゃないのか。過去の酷いことから自由になって。もう済んだことなのに、ずっととらわれ続けてきた。私が手放すことをできずにいたのだ。
私に過去の話をブログで全部吐き出して整理する方法を教えてくれたのは来未炳吾という人だ。あまり見つかりたくないから、検索して欲しい。インターネット上では相当ヒットするはずだ。彼は要らんことは書かない。何か抱えているなら役に立つことを見つけられる確率は高いと思う。メインブログではリンクも貼っているがもうここではやらない。
彼は自力でその方法や他の様々なことを見つけたり思いついたり発明して来ているのだ。まあ、それだけでも結構な驚愕だが、私が一番わからないで来たのは「そこまでする気になる動機」だった。そこまで生きることに執念を持てることだった。そうしてそれを人や社会に還元している。
別に来未について紹介したいのでもないし、私は結構話して随分世話になりまくっているが、彼をほとんどわかってはいない。ただ、書いた程度のことしか知らない。わかりやすい例だから登場してもらったのだ。
大体の人達はどうも彼ほど強烈な人生でなくても、私のように明らかに酷い過去があろうがなかろうが、私のようには手こずるものではないらしい。そうでなければとっくに死んでいるようだ。経験上結構な人数を見送っているのでそれはわかる。じゃあ、私は何なのか。正直なところ好きでこの世に居残っているつもりではないというのに。
そんな私はとても褒められた人間とは言えたものじゃないと思うのだが………、どれだけの人を言葉で痛めつけたかという問題もある。
私自身がたどり着いた表現ではないが、私にとって、技術的な意味でだけで言えば、「言葉で人を殺す」ことなどそう難しい注文ではない。今でこそ悔やんでいるししたいことでもないのだが、やればできてしまう。以前は自覚がなかったので何の抵抗も良心の咎めもなかった。今はコントロールできるか否かの話だ。
わかりにくいだろうか。
言葉による精神的虐待、と言われるものがある。これは養育者がするものだけではない。パワハラだのだってそうだ。私はそれが罵詈雑言のような稚拙なものだけでなく、理路整然としてちょっと考えたくらいでは言い返せないようなものでも可能だというのだ。ものがわかる人ならさっさと去って行く。そういうことをよく知らない人なら、あるいは立場上逃げられないなどの条件次第では、その人はボロボロになったりする。言い返せないから関係ない人格攻撃をして来る人もよくいた。私はそういうことをする相手が悪いのだと思い込んでいた。私がさせていたのだなど思いもよらなかった。虐待やハラスメントなどをするバカが絶対反省しないのは本気で自分が正しいと信じ込んでいるからで、取り繕ったりしているのではない。ヒトラーは自殺したが逃げられないからであって反省や後悔や自責が生まれたからではない。ブチ殺されたくなかっただけだ。性犯罪者や周囲で無責任な被害者叩きをするバカは自分が「人殺し」をしていることに気づいていない。いくらでも例はある。
私がして来たことがどういう性質のことか、いくらかわかるだろうか。
そして私は今でもそこから抜け切ったわけじゃないのだ。
そうなる理由もどうすればいいのだかもわからず途方に暮れていた。
紹介した本を読んだ。
子どもの頃の記憶がよみがえった。
私の記憶はないのではなかった。書いたように一時的に思い出さないようにしていたのだ。忘れたのだということまで忘れて気づかなかった。
この著者がしたように、来未がしたように、大勢の人々が大昔からして来たように、洗いざらい吐き出してみるのは、何かを変えると思う。
それだけでは足りない気がしていて、他にしたいこともあるのだが、このブログでは別の話はしない。メインブログには書くかも知れない。いずれにせよ、このブログはこの本や来未がしたようなことをすることにする。
目的は、自分が好きに生きるためだ。誰かに認めてもらうことじゃない。私が途方に暮れてはしょっちゅう挫折しているのはそこを間違うからだ。
だから何でも書いていこうと思っている。