生きたいように

NIKITAは発達障害。考えるために色んなことを書き出したけど脱思考がいいなあ。そんな感じ。

感情の問題 2017/02/26 20:50-22:05-23:27

感情の処理に苦慮している

もう3日で入院するのだが何もできないでいる。元々 寝たきりなのだ制作日誌を試す 2017/02/21 18:33-19:29 - 生きたいようにに書いたが、1か月あまりの異常な負担が 何の影響も及ぼさないわけがない

 

今私はほとんどの操作を音声入力でしている きちんとタイピングできないのである それぐらい 負担は大きかった だが 入院の準備のほとんどを私は一人でやらねばならない そんな状態ではないのに

初めに感情の処理 に苦労していると 記した

さっさと寝たりしないで 準備も出来ずにいるのに これを書いているのは それをどうにかするためだ

 

私は 何十年も 感情を抑圧して生きてきた

精神疾患ではよくあることである

感情を感じないということそのものは ありえないので めちゃくちゃにエネルギーを使って 押さえつけているわけだ

とても不自然な状態である

何よりも 生き物としての自然な欲求 というものが 「満たされる」以前に 禁止項目なのだから 自分がそれを持ってさえいけない

絶対に、いけない

命に関わるから

強力な自己否定感である

 

さてそういう人が 改善 され始めると つまり感情を解放され始めると 初めに感じるのは 怒りである 「何がしたい」という 気持ちは 強烈に押さえつけてきたのだから 最初に 感じることができるのは 「もう嫌だ」という気持ちである

つまり「したくない」という、自分の意思で拒絶する気持ちだ

それが怒りだ ということになる

 

自分を否定するということは 自然ではありえないので 誰かに押さえつけられた のが始まりである

私の場合は両親だったわけだ

かなり強烈だったようで それが生まれてから25年は続いた 25歳まで離れるチャンスがなかったのだ

 

それ自体はもう済んだことであるが、私の場合とても面倒なことになっている

 

とにかく記憶がない 今もこういう曖昧な書き方しかできない

私の育ち方 の詳細についてはまたにして ここに発達障害 と いくつかの ptsd などなどが絡んでくる

簡単に言うと 私が怒りを覚える人は とても多いのである

私は40歳だ それなのに 生活の仕方を 何も知らない

教わってもいないし 積み重ねることもできなかった

経験がないのだ あったかもしれないが 6年前 をはじめとして 何度か過去の記憶など吹っ飛んでしまうような 強烈な経験をしたわけである 私が 今のようには 現実世界に生きていた事があるとは思えない 

 

とまれ、全く生活の方法、生きる方法を教わっていない

生きる方法といっても 一般的には難しいことでもないことである

つまり生きるための習慣が何もない

食べなければ死ぬとか いや 1日3度食べるとか そういったことである

普通なら何も考えずに 自動的にしていることだと思う

調べても出てこないようなことだ

例えば育児書などを読めば出てくるかもしれない だが育児書は親のためのものである

そして親はその本を読んで工夫するのだ

実は私はそれに近いものを持っている だが読んでも全く理解できなかった

そばで間違えたら直してくれるとか カスタマイズが必要なのだ 知識がない ということだけでは済まないのである

知識と共にもう一つ 経験の積み重ねが必要である 習慣化である

40年間 普通なら習慣化していることが 私にはほとんどないのだ

……こうやって 文章を書いたりしていると そうは思われないだろう

 

非常に面倒なことはそこである

私は普段発達障害について できなさを口にするのを嫌う ほとんどのことは努力すれば克服できると思っているからだ だが出来ないことを説明せねばならない

それは今のところという条件付きなのだが こういう 他の人には出来ずに私にはできることがある またたまたまできたりすることもある あるいは大変な努力をしてできるようになったこともある 大変な努力をしてできたことは 他の人にとってはすごく簡単なことなので もう大丈夫だと思われてしまったり とにかく出来たということで やればできるのに できないふりをしている または 依存している などなど 発達障害の人は よく経験することだと思うが 私はその差が激しい 非常に誤解される だから努力をしているとか できないとか そういう話をすることが嫌いなのだ でもできるわけではない

こうしてじっくり1人で向き合いながら考え、書き出して行くような方法しか、説明できるようになれる手段が今は私にはない

その場で普通に思ったことを言えと言われても困ってしまう経験は、やはり発達障害者、精神疾患を持つ人にはあることである

克服する方法を探っている途中なのだ

特に私は会話能力が著しく低い

主張することは私には大変な犯罪行為だったので、まだ技術がないし、言ったことがその時その時で違ってしまうことも多いが、私は文字通りしゃべれるようになったばかりである

何とかしようとしているのだが、今すぐできたらおかしい

こういう話をすることは言い訳でもするようだし、自分で可能性を閉じる暗示をかける習慣にもなるからすごく嫌いだ

 

だから言及する必要がある場面では滅茶苦茶に嫌なことが重なる

疑われること、理解した気になられること、ただの依存扱いされること

今 私にとって現実とは 怒りに満ちた世界なのである ただ 以前と違って 私はきちんと現実を認識していると思う もちろん経験も知識も不足しているが こんな馬鹿げたことで 誰かと対立などしたくないのだ また 無理に 無理を重ねて 誰かに見たしてもらおうと思わない 単に邪魔をされたくないだけだ

 

今はさまざまな面でかなり手伝ってもらうしかないが、建設的に生きるための解決策を、努力するための手段を模索中だ

 

(中断 22時04分)

(再開 22時08分)

 

理解しろなど暴論だと思う

私は「了解」して欲しいのだ

臨機応変に説明をすることは非常に困難であることも含め、言ったことくらい信じてもらえないと何も先へ進めない

 

私の場合支援を受けねばまだ生きることの技術も何もないし、ぶっ倒れているのに自分でせねばならないことが多く、不得手なことばかりであるから、かなり過剰な負担になっている

ブログを書いてはいるが 遊びのためではない

もし内容読めば分かるだろう

どのくらいのことが無茶なのかもわからなかったが それは 自分を大事にするという発想が全くなかったからである やる気がないなどとは正反対だ

 

今年になって 自力で得たものはとても多い そして予想通り ごっそり色々な物事、人を失っている

だがそれに構っている場合ではないのだ

私は40歳だが 通常の40歳とは訳が違う

ここまで書いてきた通り 積み重ねも何もない 外の世界とのつながりもない そして10年ぐらい倒れたままだ

怒りを感じるのはある意味当たり前だと思っている

だがここからどうにかするのは自分の力である 人生の残りの時間などほとんどないと思っている

だから失ったもの去るものをおっている場合ではないのだ

今は自分で自分を救済することで精一杯だ

こういう話をしたくないが ある程度 元気でやったり 与えられたり 何か正常な環境で生きてきた人 そういう人に今はすぐに合わせるわけにもいかない 私は無神経かもしれないが 何であれそれどころではないのだ

 

今年に入ってのこの 特に1か月間 途中から私は全く見れなくなった めげなくなった だから特に私に気を使う必要はないが 私は静かに激怒している 一度怒ったら 簡単にはどうにか出来ないのだ

以前と違ってキレているのではない

怒っているのだ 体力が少し回復してきて 説明できる状態になったら ちゃんと書こうと思う

 

だが 今どうしても許せないことがある

 

言葉は一度出したら訂正できないと言われた 1回謝られたところで 消せないと言われた

私は一回しか謝られていないが きちんと説明しているのに 無神経では済まされないことをたくさん言われて来た 相手が善意なのはわかっていたので また定型発達の人が どういう言動をとるのか知らなかったので むやみに起こるものではないと思っていた

面と向かって私に怒鳴りたいようだが 私は今面と向かったら 張り倒すどころではすまないと思う

それほどのことをしたんだ

相手の今の状況は 相手は 私には わからないと言った

私の話を全く聞いていない証拠だ

詳しく書くことはできないが

 

付き合うのが そこまで 無理ならやめればよかったのだ

見放されないことで どんどん私は痛めつけられた 自分が何をしたかわかっていないのに 身勝手だ 私は 1万回 謝ってもらっても消えたりしないことを相当言われたが 私の本当の過ちは相手が怒った理由になった言動ではない。許せる範囲を超えたことを言われ続けても耐えていたことだ。執着して来たことだ。

 

相手の環境は私の正反対にある

だが相手の今の状況が大変なことだからではなく、その環境自体が、相手の不幸に思える

私が勝手に思うので相手には言う気もないが

 

これからもどんどんあの調子で人を痛めつけ続けて恨まれて、表面的な「幸福に見えるもの」に満たされた気になり続け、自分を誇り続けても、気づかずに我を張って行くのだろうか

 

そういうことをし続けたのだ

私にはそれでも怒る権利もないのだろうか?

善意なら何でも良いのか?赦さねばならないか?

そうは思わない

 

学ぶ所はそれでも大きく多かった

が、それは別の話だ

 

勝手に期待した自分が悪い、と言う

卑劣な表現だ

それはものすごい罵倒なのだから

 

私は昔同じことをしたことがある

その時の相手からは「あなたはそうしてわたしを冷たい人でなしと言うわけです」と言われて意味がわからなかったが、これだったのだ

私はその人のように自己救済が済んでいない

また立場はまるで違う

「人に求めてもどこまでも満たされないよ」とその人は言った

 

その通りだと気づけ

「これから」本当の意味ある苦労をしろ

人に本当にしてはいけないことを学べ

自力で幸福になれ、でなければ迷惑だ

絶対に自力で自分を救済して幸福になれ

私は何も教えてやらんし、そちらがしでかして来たことを伝えるほど優しくもないしそんなことまでもする気が起きるわけがない

悪気なく酷いことをすることは故意の悪意より悪い

 

人は変わるものだから

変わっていれば、将来再会しても特にこだわる必要はないが、今はいけない

 

今は定型の残酷さが私の冷酷さの比でないことを思い知っている