生きたいように

NIKITAは発達障害。考えるための色んなことを書く。そんな感じ。

孤独と自己破壊 2017/02/13 1:24-3:00

私は自分の特徴のひとつとして発達障害を位置づけている。だから当事者達の会話には辟易する。アイデンティティ化しているのだ。発達障害が自分だと思っている。発達障害である自分が自分だと思っている。自分がまず○○さんであることはどうでもいいのだろうか。自分がまず人間であることも忘れて発達障害当事者という生物であるように思っているみたいで、私はついて行けない……。

 

私はこのブログの一言説明のようなところに発達障害であることを書いているが、そんなに重きをおいているわけではない。発達障害であることは事実だし、それで苦労していないとはとても言えないが、例えば発達障害の知識を本などで漁ることは割合すぐに放り出してしまった。

自分に何らかの障害となるものがあるというのは19歳になる頃気づいたのだが、それで障害者に関する法律が載っている本(政府か何かの公式のもので特に解説などないものと、ずっとあとになってからは人権擁護団体が出版したものも手に取った)を見て、法律を作った奴を張り倒したくなったのを覚えている。人間であることは一緒だし、権利は同等なはずなのに、どう読んでも見下しがあり、どう読んでも当事者にばかり負担が強いられ、どう読んでも当事者は苦労のわりにまるで報われない、まるでつり合わないと感じたからだ。

その感覚が10年以上は先にあったためと、カウンセラーが気づくよう仕向けてくれたのが大体冒頭部分に書いたことだ。

 

私はアスペルガーの診断を受けて、まもなく絶望した。自殺どころか、横になって指一本動かせない状態になったことをよく覚えている。というかそれしか記憶にない。

絶望した理由は、発達障害が脳の固定的な状態であり、それは生きるのに障害となるもので、いくら努力しても大して何か変わったりはせず、だから「定型発達」つまり典型的な発達をした脳で生まれた人と同等なことができるようにはなれない、という説明をされたことだ。

もう少し詳しく言うと、それでは私の実家連中にとっては完全に生きている理由のない、エサを与えて面倒を見る価値は一切ない不良品だという価値観があったからだ。努力して何であろうとできるようになれないなら存在価値はない。それは本当に無茶苦茶な内容に及んだ。

「子どもに人権があるわけないだろう」と父は言った。両親とも私が何度も死にかけたのに、救急に通報するとか、その前に異変に気づくほど私をきちんと見るとか、具合が悪い時に看病するとか、そういった感覚はずっと身につかなかった。生活するすべも私にはわからない。あとで医師が怒ったほど具合が悪いのに無理に登校や出勤を強いられたが、何であろうと、彼らには私が生きるのに普通に必要な通常の知識は何も伝える気がなかった。

 

私が彼らのために何かした記憶はあるが、してもらった記憶はない(養われたとか食事を出されたくらいは覚えているが……)。今なら児童相談所の介入対象であるらしい。

 

ともあれ、私は自分の価値がゼロからマイナスになって、親から廃棄処分された。大学のために独り暮らしを試みたが全く何もできず、断念して実家に帰ろうと相談の電話をした。今も、彼(父)が一体何を怒っていたのか全くわからない。何を言っているのか意味がわからないことを昔からよく言う(キレるのが多いが普通のつもりらしい会話でも意味不明のことを言っていた)ことがあまりに多くて、「この人は宇宙人なんだ」と思って生きるようになっていた。

 

私独りが、モノで道具で不良品で、そんなモノが正式に不良品のお墨付きをもらって、自力で生きる力はなく、今後もその望みはない、それだからと面倒をみてくれる人はなく、私は殺されても文句が言えない。不良品でしかないモノをなぜ後生大事に持ち続けるだろう。棄てるだろう、邪魔だ。返品不可なら棄てるしかない。

 

どうやって動けるようになったのか全然覚えていないが、私が発達障害であることは私からは斜に構えて見る感覚なのだ。

定型発達だと何なのだろう。逆に発達障害だから何なのだ。「定型」側からしか、「健常」側からしか見ない、それが標準で目指すべき指標であると思っているばかりの知識とやらは、そんなに大事なのか。我々は劣っているから補助がいるのだろうか。おかしいから恩賜がいるのか?

違う、と感じたから本も何も放りなげたのだ。世界を良くする貢献ならできる範囲でするとかそんなの当たり前だけど、誰のためにするのだ。自分が幸福になれないことが保証されているというのに、そんなことしてる場合じゃない。自分が生きられることも担保されていないのに、それならまず自分を救わなくては、自分が死なないで生きられる安全安心がまずなくては、絶対にしくじる。自分も他人も皆不幸にする。

 

とても言えないで生きて来た。言語化する能力がなかったのは私の抵抗感が凄まじいからで、だから半端にしか書いたりして来れなかった。

 

まだ私はまともな親を望む子どもだ。どう虚勢を張ったってそうだ。誰もわかってくれない、私を理解して欲しい、助けて欲しい、そんなので頭がいっぱいなのだ。

 

自分を大事にすることは、教わらなければ普通、分かることではない。私は誘導してもらえたわけだけど、不幸が消えたということではない。彼は私が激しく行き詰ってどうにもならない叫びをあげた時、ただ、

 

「欠けている自分を完成させようとして、壊していただけだった」

 

と、そんなことをポイと言っていた。

私に宛てて言ったのかわからなかったが、まあそういうことをする人だ。

 

いつまでも親から受けた調教のままに自分を虐待し続ける義理はないのだが、私は努力してますよとアピールすることがメインの目的になってしまっていたのだ。わかって下さいと。これを心理学では承認欲求とかいう。ずいぶん偉そうな物言いだ。それがない人間がいるか。

 

私は無駄に無意味に孤独でいるのはもうごめんだ。